コラム

「伝統だから」は続かない。続く祭りの条件とは?

2017年7月26日

先日、待ち合わせに向かう途中、夏らしい風景に出会いました。

通りすがりの神社で夏祭りが催されており、風に揺れる風鈴に夏の日差しがキラキラとしている姿を眺めていると、幾分気持ちも涼しくなります。

今わたしの活動圏である大阪は、7月24日、25日は天神祭で賑わっていました。

天神祭は大阪天満宮が鎮座した2年後の天暦5年(951年)より始まったとされている長く続いて来たお祭りで、職場の同僚である生粋の大阪っ子の「明日はお神輿担ぐので休みます!」と意気揚々と帰って行く姿がなんだか微笑ましかったです。

先日祇園祭の宵山へも少し足を運びましたが、日本中で毎年毎年当たり前のように開催されるお祭りは、運営する人、参加する人が脈々と受け継いで来てたから今もなお楽しめるもの。

続く祭りの条件は「非日常と没入感」

徳島の阿波踊り、浅草の三社祭、京都の祇園祭、青森のねぶた祭り。
長く続き、地元の人に愛されているお祭りには共通点があります。

長く続いているお祭りの大事な要素は、3つ。

①非日常な演出が生み出す空間や時間が確立されていること

②参加者に没入感が生まれる形式で執り行われていること

③参加者が参加できることに喜びとプライドが生まれること

ただ「伝統があるから」という理由で続けられているものは、どこかその行事に対して冷静で客観的になってしまっている人の考えで、その冷静さが命取り。ちょっとした障害が立ちはばかった時に急にその灯し火が消えてしまうということにもなりかねません。

熱狂や没入感がガソリンになるお祭りにとって参加者の「冷静さ」「客観性」は祭りを祭りで無くしてしまいます。

なんでこんな滑稽なことをしているんだろう?と、刺激や面白さを感じる人が一人、二人と熱狂から醒めてしまうと、参加者から没入感が徐々に奪われていき客観的になり始める。それが一番危ういのではないかと思うわけです。

上述のどのお祭りも、参加する人が祭りを執り行う一員であることに喜びを感じ、祭りの最中は自分ごととして没入し、終わればまた日常に戻っていくけれど、次の非日常をまた目指して日常を過ごすというか、そんなサイクルを生み出しているお祭りは長く続いているような気がしています。

夏といえば、日本各地で開催されている「フェス」

これも音楽がメインコンテンツになっている祭りな訳ですが、CDやDVD、ライブハウスで体験する音楽とはまた違い、野外の開放感や次から次へと別のアーティストが出てくる刺激の多さ、見知らぬ観客や時にはアーティストとの「この限られた時間に、共有された刺激を楽しむ仲間」という特別な一体感はまさに祭り。

ここ数日間のフジロック。

フジロックはまさに、いまどきの続く祭りの象徴だなと思いました。

(写真撮影場所:大阪本町・坐摩神社 / 京都・祇園祭)

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